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第102号

会員のひろば

野瀬弘美さんの思い出 −突然の悲報に寄せて−

野瀬弘美さんの思い出 −突然の悲報に寄せて−
(D−13B 昭和40年卒)

■昭薬同窓会40周年で活躍
村上 純子(D−18 昭和45年卒)

野瀬弘美先輩は前宮沢会長および前木嶋会長の下で同窓会理事をされました。副会長に着かれた頃は薬剤師認定制度が出来た時代で研修会が盛んになり、大学と同窓会共催の昭和薬科大学公開教育講座が設けられました。いかに多くの同窓生の方に受講していただくことかに力を注がれました。また、昭和薬科大学創立70周年・昭薬同窓会創立40周年においては祝賀会に同窓生の多くの方に参加をしていただくために、学生時代に寮で過ごされた卒業生に参加を呼びかけし、町田の新校舎の見学も兼ねて大学で開かれた祝賀会に地方からの卒業生が大勢参加されました。そこで大学吹奏楽団のバックミュージックのもとで校歌をみんなで歌いました。

私も出席した一人ですが、良き思い出として残っています。

そして昭薬同窓会創立40周年の記念品として同窓会マーク入りグッズ(ハンカチ・マグカップ)を作成し、配布しました。このような企画を考え、活躍された先輩と一緒に同窓会活動ができたことを光栄に思います。そしてたくさんの助言をいただき有り難うございました。

ご冥福をお祈りいたします。

■常に前向きでした
小林 君江(D−12B 昭和39年卒)

昨年の11月、突然訃報のはがきが届き、ただただ驚くばかりでした。一度お見舞いに行きたいと思っており、それができず残念でした。

彼女と知り合ったのは、彼女が九品仏の女子寮にいた時、その近くにあった東京工大の向岳寮の学生さんと混声合唱団を結成していて、野瀬さんはそのメンバーでした。その合唱団(向岳合唱団)の発表会で伴奏を頼まれたのがきっかけでした。卒業後大学の副手に(有機製造学研究室)残られ、1年上の私も副手に残っており、その頃は副手・助手の人数も多く、助手会もそれなりの勢力でした。

その中で野瀬さんは弦巻校舎のL2研究棟1階の研究室で、大草先生のもとで仕事をしていました。当時の職場環境はお世辞にも良いとはいえず、コンクリートの床で冬は寒くガスストーブが1、2台と今から思うと彼女はとても寒そうにしていた印象が強い。圧倒的に女性の多い職場で、現在のような研究室ではなく、夏は開けっ放しで、隣の部屋との行き来は自由で、お互いにお茶の時間は一緒ということもありました。助手仲間の鈴木マリナさん、呂さん、野瀬さん、梶山さんとで我が家で、食事会をしたことがあり、とても楽しい会で、野瀬さんは、随分後まで覚えておられ恐縮しました。

野瀬さんは体の調子が今一つの感じでしたが、2年で退職され、結婚後も町田に住まれたので、その後もおつきあいさせていただきました。

野瀬さんは同窓会理事を長い間されており、当時大学近くの私に事務局員はどうかと声をかけてこられ、それ以来同窓会でお世話になっています。

理事の傍ら、彼女の家の近くの高齢者施設に交渉して入所者の薬の管理(薬剤のチェックと相談)のボランティアをされていました。薬の管理の必要性を施設をまわって説明され、理解ある施設でお年寄り一人一人と話して相談にのっていました。

5年位前に急に手足が動かなくなり(リュウマチ)、介護が必要となり、神奈川県の介護付きのマンションに引越しされ、その後はお会いする機会を逸してしまい、帰らぬ人となってしまわれました。

体が不自由になっても前向きで、ブリッジが楽しみで電車に乗ってご主人の付き添いで通っておられたとのこと親しい人から伺いました。

大好きな新潟で、ご両親のもとで永遠の眠りについておられるとのこと。ご冥福をお祈りします。

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