【42号】飛永先生の想い出
飛永精照先生が亡くなったと聞いた。2010年8月31日心不全だったという。御冥福をお祈りする。
昭和薬科大学名誉学長、名誉教授ということである。享年80歳という年齢に配慮したのか、葬儀は密葬で行われたという。
学生時代、先生との相性は正直良くなかった。先生の授業は、大学の2年のときから始められていたが、学友会の会長として、文化祭の成功に向けて資金集めに総力を挙げていた御陰で、一度も受けた記憶がなかった。3年になって初めて受けた授業は、硬すぎて頑丈な顎をしていても、噛み切れる物ではなかった。
先生との関係が良好になったのは、卒業後専門雑誌の編集者として、編集している週刊誌に毎週書いていてコラムを先生が読まれたことによる。先生の部屋に残っていた同級生が電話を掛けてきて、先生が一度会いたいといっているので、顔を出してくれということであった。雑誌の編集記者というのは、比較的時間に余裕があり、取材という名目さえあれば、勤務時間内に何処にでも行けるので、出かけていった。
行くと直ぐに『国立東京第一病院の薬剤科長を知っているか』といわれて、『知ってますよ。』、『あの先生と提携して、優秀な男子卒業生を毎年国立病院に送ることにしているんだ』という話を聞かされた。『そうですか、それはいいですよね。国立病院は総定員法の縛りがあって中々採用されないけど、優秀な男子なら採用するんじゃないですかね』。
その当時、国立病院は、定員の薬剤師を採用することは中々難しい状況にあった。新しく採用される薬剤師は殆どが賃金職員と呼ばれる臨時職員であり、定員で採用するなどということは滅多に見られないことであった。もし、先生が送り込む新卒者を採用するとすれば、誰かを転勤させるか、退職した跡を空席にして、先生が送り込むまで待つかということであり、よほどの覚悟が必要な方式を考えていたということである。
先生は何かというと『昭和三十八年卒のAクラスには優秀な学生が多かった。勉強のできる学生ばかりでなく、サムライが揃っていた』といっていた。『君も卒業してから偉く勉強したよな』といって戴いたが、学生時代の先生の試験に関してはぼろくそにいわれた。
その後、私自身が、国立東京第一病院薬剤科長の中野久寿雄先生に呼ばれて『医薬品情報管理室を作れという』御下問を受け、病院薬剤師として勤務するようになり、あまり出歩かれなくなった。病院に勤務した後、先生一人では絶対行かない店にお連れしようということで、新宿西口の今は思い出横町、昔は小便横町といわれた横町の下手物屋にお連れした。
何れにしろ何時も卒業生のことに気を配って戴いていた。ただ、先生に取って残念だったのは、先生が優秀だと褒めていた弟子達が、先生より先に亡くなってしまったことである。だが我々のクラスである三八会の生き残りは、元気で頑張っている。そちらに尋ねて行くには、まだ暫く時間がかかるかもしれない。