【64号】山口きわさん(ゲールツ氏夫人)

2011/06/10会長短信

横浜の外人墓地に当校関係者が埋葬されているのではないか。それはベルツ氏の夫人であるという話があったが、前報通りそれはどうやら違っていたようである。そこで薬学関係者で横浜外人墓地に埋葬されている関係者を探したところアントン・ヨハネス・コルネリス・ゲールツ(Anton Johannes Cornelis Geerts、1843年3月20日-1883年8月15日)が検索できた。ゲールツはオランダの薬学者。日本薬局方の草案を起草するなど、近代日本の薬事行政、保健衛生の発展に貢献したとされる。なお、ゲールツはドイツ語読みであり、オランダ語読みではヘールツとなると言うことのようで、これがベルツと読み間違えられたのではないか。

薬学、理化学、植物学に精通していたゲールツは陸軍薬剤官となり、ユトレヒトの陸軍医学校で教鞭をとっていた。1869年(明治2年)7月26歳のとき、日本政府の招請により来日し、長崎医学校(現長崎大学医学部の前身)に着任し、予科の物理、化学、幾何学等の講義を担当した。当時長崎医学校は長與專齋が学頭を務め、オランダ人医師マンスフェルト(C.G. Van Monsvelt)が教頭と付属病院の医師を兼務していた。

明治8年(1875年)、内務省衛生局長であった長與專齋は日本薬局方の必要性を考え、京都司薬場監督であったゲールツと大阪司薬場のオランダ人教師のドワルス(B.W.Dwars)に日本薬局方草案を作成させ、局方制定のための準備を進めた。ゲールツとドワルスは『第1版オランダ薬局方』(1851年刊)を参考に草案をまとめ、明治10年(1877年)長與局長に提出した。

しかし、ゲールツは明治19年(1886年)の初版「日本薬局方」の公布を待たず、1883年8月15日、腸チフスのため横浜で急逝(40歳)したとされる。現在、横浜外国人墓地にきわ夫人とともに眠っており、墓碑は永年に亘り清水藤太郎氏(薬学博士・平安堂薬局・帝国女子医学薬学専門学校教授)が管理していたようであるが、現在は神奈川県薬剤師会が管理している。きわ夫人に関しては、長崎出身の山口きわ[1853年9月9日長崎 生まれ 1934年(昭和9年)11月16日没・81歳)は、10歳年上のゲールツと結婚した。来日して結婚するお雇い外人が多いが、帰国する時には別れる外人が多い中で、ゲールツはその死まで、きわと添い遂げたといわれている。

さて、昭薬の前身である専門学校は、昭和5年(1930)に設立された「昭和女子薬学専門学校」に始まるとされており、設立時の昭和5年、きわ夫人は77歳。77歳ではとても学校に行く等と言うことは無かったと思うがどうだろう。

さてそうなると一体誰が該当するのか。更に調べる必要があるのかどうか。

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