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旧・会長短信

【63号】ベルツ氏婦人

ベルツ水で有名なベルツ氏の婦人は昭和薬科大学の前身である専門学校時代の卒業生で、横浜の外人墓地に埋葬されている。そういう歴史上の有名人を同窓会会誌に取り上げたらどうかというご意見を頂戴した。

ところでベルツの正式な名称は、エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Balz、1849年1月13日 – 1913年8月31日)で、ドイツ帝国の医師。明治時代に日本に招かれたお雇い外国人の一人。27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くしたとされている。ベルツの年表の後半を見ると、
[1876年(明治9年)]  お雇い外国人として東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師に招かれる。
[1881年(明治14年)]  東海道御油宿(愛知県豊川市御油町)戸田屋のハナコと結婚。
[1902年(明治35年)]  東京大学退官、宮内省侍医を勤める。
[1905年(明治38年)]  旭日大綬章を受賞。夫人とともにドイツへ帰国。熱帯医学会会長、人類学会東洋部長などを務める。
[1913年]  シュトゥットガルトにて死去(64歳没)。
とする記載がされている。

現在、国内におけるベルツの顕彰碑は、愛知県豊川市の西明寺の本堂の前庭にあるといわれる。ベルツの他界後に単身帰国した花夫人が、ありし日の博士への思慕とその冥福を祈って1930年(昭和5年)に花の先祖(戸田家)の菩提寺である西明寺に供養塔を建てたという。尚、花夫人は74才で1937年(昭和12年)に東京大学病院で病死(癌)したとする記載が見られる。

供養塔の傍らには秋桜子の句碑「菊にほう国に大医の名をとどむ」の句碑と第二次世界大戦で戦死した3人の孫と家族の墓碑もあるという。ベルツは日本の伝統文化を高く評価し、豊川市御油の旧家戸田家の出の花と結婚する。東大退任後は、1902年から宮内省侍医も勤め、1905年に花夫人とともにドイツへ帰国し、熱帯医学会会長、人類学会東洋部長などを歴任するも、1913年に64才の時にシュツットガルトで急死したとされる。

花夫人については、昭和12年2月10日東京帝国大学仏教青年会館で告別式。遺骨は、下谷法清寺に埋葬、シュトットガルトに分骨。

一方、昭薬の前身である専門学校については、昭和5年(1930)に設立された「昭和女子薬学専門学校」に始まりますとされており、設立時の昭和5年、花婦人は56歳。56歳でも学校に入ろうという気があれば、入学可能であるが、昭和5年当時の環境から言えば、やや無理があるのではないか。 更に埋葬場所も横浜の外人墓地ではないようである。

御助言を頂戴して、調査したが、ベルツ婦人は当校とは関係がないのではないかと思われる。

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