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クラス会報告

D-11Aクラス会報告

『そうだ 京都 行こう』

古泉秀夫

D-11Aクラス会報告

昭和38年に昭和薬科大学を卒業したので、クラス会の名称を「三八会」と付けたが、甚だ安直と云えば安直、但し分かり易いことこの上なく、第11期生(D-11)というのは、忘れてしまっても卒業年次だけは忘れようがない。

クラス会の命名の安直さに比べて、妙に結束力の強いクラスで、卒業後暫くは4年に1回、どういう訳かオリンピックの開催年に併せて、真面目に実施してきた。そのうち亡くなる人がでたことで、クラス会は2年に1回開催することに変更した。

今回その何回目かのクラス会をすることになり、紅葉時期の京都ということになった。旅館はどうするということになったが、筆者が京都の定宿としている“KKRくに荘”(上京区河原町通荒神口上がる)を紹介した。このホテルは久邇宮家所縁のホテルである。

11月17日7:33分発のひかり503号11両目に座席を取れという指示があり、駅に行ってCPで発注した。どうせCPで取るのだからと云うことで、18日は京都18.53分発-東京行きの“ののぞみ48A”の指定券を手に入れた。

今回の参加者19名の内3名は直接ホテルに来ると云うことで、到着した16名京都府内行きを利用して目的地に行くため、新幹線駅構内からJR奈良線のホームに移り、東福寺を目指した。

臨済宗大本山東福寺は、摂政九条道家が、奈良における最大の寺院である東大寺に比べ、また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で、「東」と「福」の字を取り、京都最大の大伽藍を造営したのが慧日山東福寺である。寛元元年(1243年)には聖一国師を開山に仰ぎ、まず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備したが、元応元年(1319年)、建武元年(1334年)、延元元年(1336年)と相次ぐ火災のために大部分を焼失してしまった。

仏殿本尊の釈迦仏像は15m、左右の観音・弥勒両菩薩像は7.5mで、新大仏寺の名で喧伝され、足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理が加えられ、東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝え、兵火を受けることなく明治に至った。明治14年12月に、惜しくも仏殿・法堂、方丈、庫裡を焼失した。その後、大正6年(1917年)より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着工、昭和9年(1934年)に落成。明治23年(1890年)に方丈、同43(1910)年に庫裡も再建され、鎌倉・室町時代からの重要な古建築に伍して、現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮している。また、開山国師の頂相、画聖兆殿司(ちょうでんす、明兆)筆の禅画など、鎌倉・室町期の国宝・重要文化財は夥しい数にのぼっている。

三門を通り、本堂の横を真っ直ぐ行くと通天橋に居たる。方丈と開山堂を結んで架かる橋で、ここから眺める渓谷・洗玉澗(せんぎょくかん)の紅葉と新緑は絶景とされている。

ここから東福寺駅から京阪本線で祇園四条駅まで行き、四条通を八坂神社目指して歩き、円山公園に抜け、公園から知恩院に抜ける通りの左側にある平野屋本家で“いもぼう”定食なるものを昼飯として予約してあった。“いもぼう”とは、海老芋と棒鱈を焚いた物で、海の無い京都で鮮魚は手に入らないため、鱈の干物を水で戻して芋と一緒に焚く料理が開発されたのだろうけれど、今回で二度目の経験だが、そんなに美味いと云うほどの物では無い。但し、一度は喰ってみる価値はあるかもしれない。日本蕎麦に身欠き鰊の甘露煮を乗せる“にしんそば”も、それほどの事は無いと思えるが、京都名物としている店も在る。

18日は幹事がヤサカ観光に依頼し、バスを手配していた。19名乗車で、拝観料等を含め込み込みで一人10,557円。女性のガイドも付くということで、まあ適正な値段じゃないか。蓮華寺→大原寂光院→大原三千院→永観堂禅林寺→南禅寺というコースが予定されていた。

最初の蓮華寺は余り大きなお寺ではないが、紅葉がいいといわれている。天台宗。庭園は、石川丈山作と伝えられる池泉回遊式庭園で、茶人好みの六角形の笠をもつ蓮華寺型石燈籠がある。鐘楼には黄檗二世木庵禅師の銘のある銅鐘がかかっている。本尊は釈迦如来像。 洛北、叡山鉄道叡山本線の終点、八瀬比叡山口駅の少し手前にあるお寺である。団体で予約しておくと、御住職が寺の案内と庭の見方を説明してくれるが、聞いたことのない話なので面白かった。

次の寂光院は天台宗の尼寺で、推古二年(594年)聖徳太子が父親の用明天皇の菩提を弔うために創建されたと紹介されている。本尊は聖徳太子作とされる六万体地蔵である。平成十二年(2000年)五月九日の火災で損傷(但し重文指定)、新たに復元された本尊が本堂に安置されている。火災は放火で未だに犯人は逮捕されていないと云うが、貴重な文化財に火を付けことになんの意味があるのか。

大原三千院は、天台宗五箇室門跡の一つで、最澄が比叡山に庵を結んだ時、東塔南谷に一堂を建立したことを起源とする寺院。市指定名勝庭園の「有清園」や「聚碧園」、重要文化財の「往生極楽院」、国宝の「阿弥陀三尊像」などが存在する。

永観堂禅林寺は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。永観堂の御本尊は“みかえり阿弥陀”と云われ、阿弥陀様の慈悲の形が具体的にでているとされている。永観律師の修業時代、先導する阿弥陀が振り向いて「永観、遅し」と云った姿をとどめていると云われている。

永観堂から南禅寺は歩いて数分のところに有り、我々も歩いて行くことになった。バスガイドの説明では、南禅寺の敷地は嘗て永観堂のものであったと云っていた。それからすると永観堂というのは無闇に広かったと云うことだろう。南禅寺の宗派の名前は、臨済宗である。また黄檗山萬福寺を本山とする場合は、黄檗宗と呼んでいる。一般に禅宗という呼びかたは、坐禅を生命とする宗派の意味であり、臨済宗・黄檗宗・曹洞宗の三宗の総称であるという。臨済宗・黄檗宗には15の本山があり、南禅寺はそのうちの一つで、南禅寺派の大本山であると説明されている。

南禅寺が知られているのはテレビの2時間ドラマの推理物の場合、頻繁に登場し、中でも同寺の庭にある疏水は、琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路で、滋賀県大津市で取水され、南禅寺横を通り京都市東山区蹴上迄の区間であると説明されている。疏水の工事は1881年に始まり、1890年に竣工した。疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業、潅漑用水、防火用水などであったと云うが、天皇が江戸-東京に行き、衰微する京都を愁いて建設されたと云う。

南禅寺を最後に京都駅に向かい、4時30分に解散、それぞれ家路に就いた。

(2014.11.26.)

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